蒼風が吹く時

第1章

その日は、雲ひとつない青空の広がる暖かな日であったことをカイルは覚えている。
何もなかったように静かに空を見上げ、カイルは長いまつげをふせ、そっと瞳を閉じた。
「キックリ、私は泣かぬぞ」
幼い頃からカイルにつき従うこの忠実な従者に背中を向けたまま、そう言い放つカイルの頬を、一筋の涙が伝った。

母ヒンディー皇妃の死は突然であった。
もともとそんなに身体の丈夫なほうではなかったが、こんなに早く別れが来ることなど、だれが予想しただろう。
カイルの横では異母兄弟のザナンザが声をあげて泣いていた。
ザナンザは自分の産みの母を無くしているが、その時は死そのものを理解してはいなかった。それはザナンザが味会う初めての深い悲しみであり、ヒンディー皇妃の死は自分を愛してくれたものと二度と会うことのできない死の悲しみを理解させた。
カイルはザナンザの頭を撫ぜると静かに慰めるように言った。
「ザナンザ、ここで泣いたらもう泣くな、皇子は人前で涙を見せるものではない。」
ザナンザは、返事をする代わりに声をしゃくりあげながら、腕で、涙をふき取ると唇をかみ締めた。
自分の代わりにザナンザが泣いてくれる。
そう思いながら、二度もこの幼子から母親を奪うことになってしまった運命を憐れみ、涙を必死にこらえる弟にいとしさがこみ上げる。
カイルは自分を見上げるザナンザの目線に、自分をあわせもう一度やさしく頭を撫ぜた。
カイルはこの腹違いの弟をかわいがった。
歳が近かったせいもあるが、幼くして母を無くしたザナンザを哀れんで、カイルの母であるヒンディー皇妃が引き取り一緒に育ったことも、要因だろう。
母は時間のある限り二人の幼い兄弟とともに過ごす事をいとわなかった。
その時間がカイルにとっても唯一安らげる時間であったと言っても過言ではない。
カイルは第3皇子ではあったが、現皇太子の次に王位継承権をもつ皇子であり、帝位を継ぐべき教育を受けるべき地位にあった。

そのことが、カイルから人前で感情を殺し、冷静に行動せざるおえない状況を作っている。
自分をさらけ出すことができる場所が母であった。
その母が今はもういない。
母の死が意味するものはカイルにとって他の者が考えるよりも重要なものであった。
母の崩御に伴い宮廷の関心事は、次の皇妃が誰になるかということであった 。
幾人もの側室の中から皇妃を選ぶのか、それとも隣国から新しく姫を迎えるのか・・・。
その時、カイルには父の皇妃がだれになろうと全く自分には関係ない出来事でしかなかった。

第二章

「次の皇妃が決まったようですが、ご存知ですか?」

イル・バーニは、カイルの反応を確かめるように静かに声をかけた。
「ああ、そうみたいだな・・・・・」
イル・バーニの言葉は、カイルに臆することもなくいつも卒直にカイルの心の中へ踏み込んでくる。
カイルは長いすに身体を横たえ無関心を装いながら答えた。
自分の本心を悟られるのを嫌うように庭の噴水に目をやりながら、イル・バーニのほうへは振りむかずに答える。
まだ母上がお亡くなりになって半年も経たぬ。
カイルはこみ上げる怒りを抑えた。
ヒンディー皇妃が崩御されて数日もたたぬうちに宮廷の中は、次の皇妃に取り入ろうと画策する貴族の活動の場となっていた。
その宮廷の空気を嫌い、この数ヶ月カイルは極力宮廷への出向を避けてきた。
一国の皇帝がいつまでも皇妃無しで過ごせるものでない事はカイルも解ってはいた。
ただ頭では解っていても感情がそれを受け入れることができなかったのだ。
だがカイルにはその感情に浸ってる時間はなかった。
イル・バーニはそんなカイルの反応にお構いなく話を続けた。
「ジュダ皇子を生まれたナキア皇女が皇妃にたたれるようですな」

「ナキア皇女はまだお若いが、まあ妥当な人選でしょうか」

「なかなか、したたかな御側室だ」

イル・バーニの言葉を遮るように、カイルは、言葉を吐き捨てた。

「確かに、今の側室の中で皇子を産んでるのはナキア皇女だけだ」

「王家の生まれで、血筋も問題ない」

だが、ヒッタイトに来て数年で父上の寵を受け皇子までも生んだ」

「なかなかの手腕だと思わぬか?イル・バーニ」

「御気づきでしたか・・・・・」

「この数ヶ月傷心に浸っておいでだけではなかったのですね」
イル・バーニは微笑みながら一つ頭を下げた

「お前の言いたいことは解ってるさ」
「皇妃の権力を待ったときどのような態度で出ることか・・・」
「私は、気を抜くつもりはない」

カイルはイル・バーニに視線を移し答えた。

現時点でのカイルの王位継承権は皇太子を除くと次の地位にあった。

その次に位置するのが生まれて間もないジュダ皇子である。
ナキアが皇妃となった時、ジュダ皇子の王位継承を望んでも、なんの不思議もない。

イル・バーニの不安はそこにあった。

「争いを好まぬお方ならよろしいのですが・・・」
穏やかな物言いだが、声とは裏腹にイル・バー二の不安は日に日に心の中に
湧きあがっている。
それはカイルが乳兄弟だからだけではない。
この皇子の持って生まれた気品と皇帝としての器を、イル・バー二は信じて、愛してやまなかった。
「あの陰湿な後宮の争いを勝ち抜いたお方だ、母上の庇護があったとしてもな・・・」

生前、ヒンディー皇妃は、人質同然としてヒッタイト後宮にやってきたまだ幼さの残る少女を哀れんだ。

何の後ろ盾も持たぬ側室にとって、けして後宮は住みよいところではなかったはずだ。

ヒンディー皇妃は、何かにつけ少女のことを気にかけ、他の側室の嫌がらせを回避させていた。
ヒンディー皇妃の気配りが後宮の争いを無難に収めていたのは、周知の事実だ。
ただ、ヒンディー皇妃の目の届かぬところで陰湿ないじめがこの少女に行われていたのも、また、事実である。
その少女がヒンディー皇妃の死とともに皇帝に次ぐ権力を手中に治めようとするナキアであった。
「運がいいだけなのか、それとも・・・・」
カイルはイル・バーニに疑問を投げかけた。
「運だけのものなら問題はあるますまいが、なんの後ろ盾も持たぬものが、運だけで皇妃になれるものか疑問は残ります・・・」

「意見は一致だな」
「キックリ!キックリ!はいるか?」
「ハイ ここに」
キックリは、すばやくカイルの側に膝まずいた。
「宮廷に出かけるぞ」
そういうとカイルは、長いすから身体を起し部屋を足早に出て行った。
イル・バーニは静かに頭を下げ、二人の後姿を見送った。
「忙しくなりそうだ」
イル・バーニの心がつぶやきながら。

第三章

「父上、お后がお決まりになったようでお祝い申し上げます」
皇帝の玉座の前に跪いたカイルは、開口一番にそう言い放った。
「カイル、そう皮肉を言うな」
「私とてヒンディーの死は辛いのだ。
だが国王の務めとしての義務がある。
ヒンディーの面影に生き写しのお前を見ると、心が痛む」
カイルの視線を反らすように口数多く皇帝は言葉を続けた。
「私はヒンディーのすべてを愛した。
あれ以上の皇妃は現れないだろう。
お前の母は、私自身のために皇妃とした。
次の皇妃は、ヒッタイトの為の皇妃として選んだのだ」
「父上を責めるつもりはありません。」
「ただ確かめたかったのでございます。
どうゆう経緯でナキア姫を選ばれたのかを」
「お前にそれを知る権利があると申すか」
皇帝は玉座から身を乗り出しカイルの申し出に戸惑いを覚えた。
「差支えがなければ。」
カイルは臆することなく真剣な眼差しで父を見上げ、言葉尻をつよめる。
「今の側室の中で皇子を産んでるのはナキアだけだ。
それに少なくとも皇女だ。」
皇帝は大きく息を吐いて、自分に言い聞かせるようにそう答えた。
「それ以上聞くな」

そして、皇は玉座に深く身体を預けた。
父の言葉にうそは無いのだろう。
ナキアの皇后擁立もヒッタイトの国としても何の問題もない。
だが、なぜかカイルは一抹の不安を取り除く事は出来なかった。
そのカイルの不安が的中するのにそう時間はかからなかった。
ナキアが皇后の地位につきタワアンナとしての力を持ったとき、ナキアはその本性を徐々にあらわしたのだ。
そのやり方はまさに巧妙であり、気がついたときには、後宮でナキアに逆らうものは誰一人としていなかった。
以前ナキアと伴に皇帝の寵を争った側室の一人は、父親の政治的失脚により後宮を追放された。
その裏でナキアが動いていた事とを知る者は少なくない。
「やはりなかなかの曲者でしたな」

最近イルバーニは、毎日のようにカイルの屋敷にやってきては話し込む日が続いていた。
宮廷ではナキア皇后にらまれる事を恐れる雰囲気が流れるようにになっていた。

「反抗するのは私ぐらいのものだろうな」

「ほどほどになさいますように」

「いくら私でも今の義母の権限には勝てぬ。
しばらくはのんびり遊ばせてもらうさ」
そういいながらカイルは、コップになみなみと注がれている赤いワインを飲み干した。

これから訪れる苦難を飲み干すかのように。

第四章

カイルは朝方近く屋敷に戻りベットに入った。
カイルの若い肉体は、いつまでも飽きることなく眠りをむさぼっている。
いつからともなく、カイルは恋人と称す若い娘の側で夜を楽しみ、朝方近くになると自分の屋敷に帰ってくるのが日課になっていた。
ただ一つ違ってる事と言えば、その夜過ごした相手が次の日は別の誰に変わってることであった。
カイルは、恋人の側で眠る事はなかった。
愛し合った後もなぜか安らぎを覚える事が出来なかったのだ。
情事の後の体の満足感とは裏腹に、心はいつも何かを求めている。
それがなぜなのか、はっきりとした理由はカイルにも判らないでいた。
ただ体の求めるままに自分の欲望だけを、毎夜満たしているにすぎなかった。
恋人達の時間が過ぎると、横で寝息をたててる姫君を残し、そっと部屋を出て屋敷へと向った。
「そろそろ妃の一人でも持ったらどうだ。」
最近の皇帝のカイルへの関心はここであった。
皇帝だけでなく、国中の貴族、カイルの恋人達すべての関心ごとといってもよかった。
「いやなかなか美しい姫君が多く一人にしぼれないのです。」
この疑問が投げかけられると、いつもそう笑って返事し受け流すカイルであった。
ほとんどのカイルの兄弟達は、正妃に側室数人を持ち次期皇帝とも噂されるカイルに
娘を嫁がせようとする貴族も多かった。
娘達の中にはカイルの恋人になるために日夜身体に磨きをかけるものも少なくない。
恋人になることが妃へなることへの近道でもあったのだから、カイルに夢中になる女性は日に日に増えていくような状態であったが、当の本人は誰一人として女性にのめりこむことなく平等にそして冷静に愛した。
「昨日はどちらでお過ごしになられたのですか?」
そう切り出しキックリはカイルの世話に取り掛かっていた。
「ギャゼル姫のところだ。」
顔を洗いながらカイルは答えた。
「まだお妃候補は見つかりませんか?」
「幾人かは考えているんだが、今ひとつの決め手がわからぬ。」
キックリからタオルを受け取りながらカイルは答えた。
カイルは、自分の妃となりうる人物にある条件を決めている。
その事を知っているのはカイルの側近数人であったろう。
いずれ私は帝位につく。
だから、私は私の正妃になるものに厳しい要求をするだろう。
人の上に立つ器量、自戒心、自制心、その他に多くのことを・・・・。
そのかわり、わたしは側室を持たぬ。
生涯その正妃一人を愛しぬこう。
これが、ナキアのタワナアンナの器量に疑いを持った時からのカイルの自分の妃になりうるものへの考えの全貌であった。
「なかなか、御めがねにかなう愛しぬける姫君は表れないという訳ですね。」
キックリは、そうポツリと言った。
キックリは、真剣に早くカイルのいつも研ぎ澄まされた神経の安らげる居場所が見つかる事を望んでいた。
それが、いかに難しく困難である事かはカイル自身が感じていたのかもしれない。
そんなカイルの目の前に突然、偶然の出会いが待っていたのはそれから幾日もたたない時であった。

最終章

ナキア皇太后の謀計は徐々にカイル達皇子の排除へと進められていた。
その謀計の一つとして、少女は時空を越え、いけにえとしてナキアの魔力によりヒッタイトに連れてこられた。
突然泉から現れた異国の衣装を身にまとう少女は人々の好奇の目にさらされた。
わけがわからず、言葉もわからぬこの状態に、少女はただ自分の身に危険が近づいていることだけが理解できた。
この難から逃れようとした少女は、突然カイルの目の前に飛び込んできた。
太后の私兵に追われる異国の少女を見たとき、カイルの直感がこの少女を私兵からかばう行動に働いた。
自分のマントをすばやくなびかせるとマントはそのまま少女の全身を覆い隠し、カイルの胸元に運び込んだ。
倒れこむカイルの腕の中で少女は逃げようとあがらい、わけのわからぬ言葉を発した。
カイルは舌打ちすると、少女を黙らせるため少女に自分の唇を押しつけた。
突然の出来事に少女は驚いたのか、突然手足の力が抜けるように自分の体をカイルにあてがった。
ただ少女の頬にはいくつもの涙がとめどなく流れている。
自分の屋敷に連れて行こうと思った時、少女はカイルの腕を振り払い逃げ去って行った。
だがなぜかその一瞬の少女が気に掛かる自分がいた。
一瞬であったが、少女を腕の中に抱き締め、そして自分を振り払い通り過ぎて行った娘を思う時、優しい風がカイルの身体を包むように感じた。
その後ナキアからその少女ユーリを救い、成り行きで自分の側室としてかくまったカイルだった。
これが徐々に惹かれていき、愛し合うようになるユーリとの最初の出会いである。