春風のごとく

春風のごとく(イル・バーニ物語) 

第1章


「イル・・・・イル・バーニ・・・・・。」

誰だ、私を呼ぶのは・・・・。

薄れ行く記憶の中、かすかに遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。

「私はここで何をしてるのか・・・・。
確か宮廷にいたはずだが・・・。
曖昧な記憶がイル・バーニの思考を留まらせる。
「イル・バーニしっかりするんだ。」
その声は陛下・・・・。
「何をそんなにうろたえているのですか。」
そう唇を動かしたつもりだが、言葉が出ない・・・。
イル・バーニは言葉の出ない自分に気づくと同時に、体が吸い込まれていくような感じに全体が支配されていった。


イル・バーニはその日の事を今でも鮮明に覚えている。
「イル・バーニ、今日はお前を宮廷に連れて行く。」
その日、唐突に父はイル・バーニを連れたち屋敷を後にした。
初めて足を踏みいれる王宮は、ヒッタイトの栄華を示すごとく壮大であった。
その広い王宮を奥へどのくらい歩いたのだろうか。
部屋と壁に囲まれた空間を抜けきると、暖かな木洩れ日の中にたたずむ三人の姿が、イル・バーニ親子を迎え入れた。
まるで絵の中に紛れ込んだようなそんな錯覚をイル・バーニは覚えた。
太陽の暖かい光が木の葉の間からもれ、腰まで伸びた金色に輝くたおやかな髪に反射し、その姿を美しく照らしだされたその女性は静かにやさしい微笑で座っていた。
その横にはその女性に戯れるようにその女性によく似た同じ髪の色持った少年と、
その少年よりまだ幼い面影を持つ少年二人がイル・バーニを見つめていた。
「皇后様および殿下にはご機嫌麗しゅう・・・これが私の息子でございます。」
「イル・バーニ、ご挨拶を。」
父はこれ以上ないというように深深と頭をさげイル・バーニをその3人に紹介した。
父親の口上と態度でイル・バーニはこの三人が何者であるか察知する事が出来た。
「イル・バーニと申します。
ヒンディー様、カイル殿下、ザナンザ殿下にお目にかかれ光栄でございます。」
王宮の奥、いわゆる後宮には現皇妃と多数の側室が住む住居がある。
そこに自分と同じ年頃の皇子といるとなれば、最大の勢力を持つのは現皇帝の妃、その実子である第三皇子であるカイルと、最近母親が亡くなって皇妃に引き取られた皇子であることがイル・バーニには予測できたのだ。
父と同じように深深と頭を下げたイル・バーニではあったが、その態度は慎重であり微塵も子供らしさを感じるものではなかった。
「話は陛下から聞いてます。
カイルの遊び相手ということですね。
よろしくお願いします。」
優しく暖かく身体に染みいるようにヒンディの言葉はイル・バーニを包み、その声を聞いた途端、イル・バーニは自分の顔が赤らむのを感じ、顔を上げることが出来ないまま、小声で「ハイ」と答えるのが精一杯であった。
イル・バーニの母はカイル皇子の乳母として、後宮に仕えていた。
つまりは、カイル皇子とは乳兄弟の関係であったが、これが最初の出会いであった。


第二章


「イル・バーニ様大丈夫ですか?」
真っ先にイル・バーニの側に駆けつけたのは、カイルの世話係として仕えているキックリであった。
この時期カイルの側近にと数人の貴族の子息が、カイルに仕えていた。
だが、カイルの御気に入りは仕えて間もないイル・バーニであり、以前からカイルの側に上がっていた者達にとって、新参者があっという間にカイルの信頼を得たのが気に食わず、カイルの目を盗んでは何かとイル・バーニに辛くあたっていた。
その日もイル・バーニ一人を数人で囲み難癖をつけていた。
「いいかげんにしたらどうですか、私にとってこのようなことはなんでもないことです。」
「まったくの時間の無駄だ。」
幾度もの度重なる嫌がらせにもイル・バーニは動じなかった。
むしろしびれを切らしたのはいじめをしているほうであった。
「何ーーー。」
怒りに任せてその中の一人がイル・バーニの胸倉をつかみ殴りかかった。
その拍子にイル・バーニには地面に倒れこんだ。
その場面を目撃しキックリが慌ててその間に入り込んできたのだった。
「邪魔をするな、いい機会だから新参者が礼儀を教えてるんだ。」
「つげ口したらどうなるか、わかってるな。キックリ」
イル・バーニを殴った少年は、顔を高潮させたままキックリをにらみつけた。
「どんな礼儀か私にも教えてもらおうか?」
その声にその場は水を打ったような静けさに包まれた。
「カイル殿下・・・」
声の主は突然、建物の柱の影からその姿をあらわした。
「殿下を煩わせるようなことではありません。」
イル・バーニは立ち上がると、服についた土を払い、カイルのほうに軽く会釈した。
「お前達はイルが気に食わないようだな。」
さっきの威勢のよさは影を潜め、少年達は、誰も言葉を発する事が出来なかった。
ようやくその中の一人が意を決したように口を開いた。
「なぜ殿下がイル・バーニをお気に召してるのか理由がわかりません。
私たちも殿下には忠実にお仕えしてるつもりです。」
それを聞き終わらぬうちにカイルは足元の石を拾い始め、おもむろにその石を側の噴水の中に投げ入れた。
「今私がいくつの石を投げ入れたか答えてもらおう。」
そういうとカイルは全員を見渡した。
「そんな事が何だというのです。」
「答えられぬのか?」
カイルの言葉には強い意思を感じた。
その雰囲気に推されるように少年達は口々に大まかな数字を答えた。
「10個ほどかと・・・」
「いや15個はあったぞ・・・」
「イル・・・お前はどう思う?」
カイルはイル・バーニに目線を移し答えを待った。
他の少年達の視線がイル・バーニにあつまる。
「少しお待ちくださいませ。」
イル・バーニはそういうと服がぬれるのもかまわず噴水の中に入って、石を拾い上げていった。
「18個ありました」イル・バーニは両手に石をすくい、カイルに差し出した。
「私は皆の忠義に不満を思った事はないだが、私はイルの正確な洞察力と確実な判断にたいして依頼を寄せてるのだ。」
少年達は何も反論する事が出来ず、ただ立ち去るしかなかった。
「お手数をおかけしました。」
イル・バーニは再度カイルに向かいうやうやしく頭を下げた。
「イル・・・私がいるのを見こうして挑発しただろう?」
カイルは笑みを浮かべながらイル・バーニに歩み寄った。
「お見通しでしたか?」
「相変わらず油断が出来ないやつだな。」
そういうと二人の口からは笑いが漏れていた。
ことの流れを今ひとつつかめず戸惑うキックリに、二人は笑い声が大きくなっていった。
二人の信頼関係はこの時期にはもう十分なものになっていたといっていい。
イル・バーニがカイルと出会って3ヶ月が過ぎた春先の出来事であった。



第三章


月日はながれ、イル・バーニは王宮の書記官を勤めるようになっていた。
その噂は突然、イル・バーニの耳に飛び込んできた。
「カイル殿下もようやく側室をもたれたらしい。
それも泉から当然現れた異国の姫君ということだ・・・」
イル・バーニはわが耳を疑った。
まさか殿下が・・・
側室を持つとは・・・
カイルは以前よりイル・バーニに言ってたものだった。
「いずれ私は帝位につく、だから私は私の正妃になる者に厳しい要求をするだろう。
人の上に立つ器量、自戒心、自制心、そのほか多くのことを・・・。
その代わりわたしは側室を持たぬ。
生涯その正妃ひとりを愛しぬこう。」と
ヒンディー皇后が亡くなり、その後に皇后となった現ナキア皇后は、なにかと噂のなくならぬ野心家であった。
タワナアンナがその器量に欠ければ国は危ぶむ。
イル・バーニはカイルの考えに賛同していたのだ。
いままで殿下は条件にあう姫君を探しておられたはず。
なのに突然側室とは・・・。
釈然としない思いと不安がイル・バーニの頭をよぎる。
早急に確かめねばならん。
イル・バーニは王宮を後にし、その足でカイルの宮へと急いだ。

少年に見間違うような・・・まだ子供ではないか。
これがユーリを、初めて見たときの印象であった。
ユーリが日本という異国からナキアの謀計により殿下の命を狙うための生贄として現れ、カイルにかくまわれた経緯はキックリから聞き、要領をえることはできた。
「殿下は成り行きと言われるが・・・」イル・バーニの目にはカイルが少なからずユーリに好意を抱いてることが予測できた。
それは今までどの姫君たちと付き合ってきてもカイルに見られたことのない感情の変化であり、そのことがイル・バーニを不安にさせた。
心奪われねばいいのだが・・・。
ユーリが側にいることでカイルが判断を誤るような事があってはならない。
私が悪役にならねばならぬか・・・
それがイル・バーニの決断であった。
カイルの側室という点を除けばユーリはけしてイル・バーニが警戒する必要のない存在であった。
ユーリの行動はけして打算的でなく、むしろ無邪気であり廻りを和ませる。
むしろ自然に好意をもつことが出来たであろう。
イル・バーニの視線は冷静にユーリを観察する。
だがそれは、感情的なものではけしてなく、イル・バーニにとって、カイルのためになるかならないかそれが判断の基準であり、全ての結果なのである。
その事が他の者にとってイル・バーニはけむたい存在と思わせ、カイルからは1番の信頼を得ている結果を生むのであるが・・・。

すぐに、もといた世界へ返せるはずであった。
だがその少女はアリンナ、キッズアトナの戦いを勝利に導き、イシュタルとしての名声を上げヒッタイト国民へ受け入れられてしまった。
今のところ殿下のお邪魔にはならぬか・・・
それがイルバーニのユーリに対する最初の評価であった。


第四章


冷静、沈着それがイルバーニが他人に与えるイメージである。
うらを返せばとっつきにくく、人に敬遠されがちな雰囲気を漂わせている。
カイルの参謀として目を果たすために、それが自然と身についたのかもしれない。
カイル以外にはイルバーニの隠されたやさしさを知る者はいなかったであろう。
このカイルの信頼が、イルバーニの態度を強行にしていたのもまた事実である。
「イルバーニ、またしかめっつらだよ。」
突然のユーリの声がイルバーニを現実に引き戻させた。
数週間前ユーリは、近衛長官となっていた。
ユーリを近衛長官とし、エジプト戦の勝利をカイルの正妃となる条件としたしたナキア皇妃の本当の狙いを考えればイルバーニの不安が増すのも仕方のないことであり、思案をめぐらすことが日課となっていた。
「ユーリ様、ご機嫌うるわしゅく」イルバーニはそういいながら頭を下げた。
「なるようにしかならないよ、簡単にはやられないから。」
ユーリはイルバーニの気持ちを見透かすように、そう笑顔で声をイルバーニにかけた。
「皇太后は何を仕掛けてくるかわかりません。
十分にご注意くださいませ。」
この方の前ではどうもいつもの自分を演じるのが難しい。
イルバーニの口元がすこし笑った。
いつからかユーリの人柄と行動力に一目置く自分がいた。
それ決定づけたのがベイジェルを3姉妹とユーリ、イルバーニが旅芸人に化け、アルザワ市庁舎を武装開場させたユーリの奇策であった。
ヒッタイトですごした2年の時間がユーリにもたらした変化は、イルバーニが予想もしえなかった人の上に立つものの資質そのものへの変化であった。
イルバーニにとって守らなければいけないものが、ひとつ増えた瞬間でもあった。
季節はながれ、幾度の難を乗り越え、ナキア皇太后は失脚。
ユーリはカイルの正妃となった。
それはルサファの命の引き換えという大きな代償を最後に必要とするものであったが、これからはいい時代が来る。
陛下とユーリ様を、われわれがお助けし、きっと作っていけるだろう。
それがお二人を守り死んでった多くの人々への手向けとイルバーニは心に誓った。



最終章


時は流れ、穏やかな宮廷の1日が今日もはじまる。
「ユーリ様~」宮廷奥からハディ女官長のあわてた声が聞こえてきた。
また、ユーリ様が宮廷を抜け出したらしい。
イルバーニは大きくため息をついた。
「これでまた宮廷内の雑用が増える。」
ハディのいつものあわてぶりを眺めながらもイルバーニの目は笑っていた。
ムルシリ2世陛下の御世。
ヒッタイト帝国は歴史上もっとも繁栄した時代を迎えた。
イルバーニもバンクス議長となり、もっとも重要な位置についていた。
国内も宮廷内も、急を要する問題もなく、穏やかに時は流れていく。
平和な時を刻んでいった。
宮廷の置く庭に腰を下ろしイルバーニは穏やかな風を楽しんだ。
突然、イルバーニが前かがみに倒れこんだ。
どこから飛んできたのかイルバーニの倒れこんだ側に棍棒が落ちていた。
「ごめんなさい、大丈夫。」
イルバーニを覗き込むディル皇子とヤズとキシュの心配そうな顔があった。
「大丈夫です、しかし無様な・・・」
体を起こそうとしたイルバーニであったが、棍棒の衝撃は思ったより強かったらしくイルバーニの意識を遠のかせていた。
風が心地よくイルバーニの体の上を通り過ぎていた。