下弦の月が浮かぶ夜37

*

「綺麗な人・・・」

俺の横で見惚れて感心する様に葵がつぶやいた。

「新しい秘書だから頼む」

「人事からは何の連絡もございませんでしたが?」

「俺が連れてきた」

「珍しいことをなさいますね。雪でも降るのかしら?」

モデルと言っても過言でない長身のすらりとした身体。

しっとりとした大人の頬笑みが浮かぶ。

初夏の清々しい風がそよぐ季節。

雪なんて降るはずはない。

「よろしくお願いします。東條葵さん。第1秘書の一之瀬香です」

一之瀬から差し出された手を葵が慌てた様に握り返した。

「人事の方には私のほうから連絡を入れておきます」

優雅に見える仕草で頭を下げて隣部屋へと一之瀬は戻っていく。

「どうして私の名前・・・」

今頃気がついて葵が呟やく。

「一之瀬は全部知っているから」

「知っているって・・・」

「俺の見合い相手が君だってことも、一緒に暮らしていることもね」

驚くかと思った葵の表情は呆れたように俺に向けられた。

「それじゃ、職権乱用なんて思われたんじゃない?」

不安の色が浮かぶ瞳。

それって自分の心配じゃなく俺の心配だ。

「一之瀬は君を正しい判断で評価してくれるよ。色眼鏡で見て判断を誤る様な人じゃない」

「君に能力があればって条件はつくけどね」

軽めの口調で言いながら椅子にゆっくりと俺は腰掛けた。

「能力って・・・」

「一之瀬さんのこと信用してるんだ」

葵のムッとした表情はすぐに消えて言葉尻が淋しげに小さくなる。

「長い付き合いだからな」

葵の態度にくすぐったい感情が心の中に浮かぶのを押さえこむ。

「職権乱用なんて思われないためにしっかり頑張ってくれ」

デスクの上の書類を一之瀬に渡す様にと差し出した。

「横暴とか言われない」

わずかに眉をつり上げた非難気味の表情。

横暴!

傲慢!

我がまま!

それは司の専売特許だ。

「言われたことはない」

渡した書類を葵は抱きしめる様に胸の中に抱え込む。

そんな仕草が可愛いと思う気持ちは否定しない。

可愛い思う感情は妹たち以外にいなかったような気がする。

高校生と同等に並べたって葵が知ったら・・・

不機嫌な表情をしっかりと作ることだろう。

葵は一応俺より年上だ。

やけ気味に頭を下げて高く響く足音を立てながら部屋を出ていく葵。

見送りながらこらえ切れずに笑い声を上げていた。

仕事が終わった夕刻。

葵の実家へと一緒に向かう。

玄関の前には行く先をさえぎる様に一台の黒塗りの高級車が止まってた。

往来の邪魔だぞ!爺様。

葵の「ただいま」のあいさつをかき消す様に響く笑い声。

葵の両親、と爺様に俺と葵、それだけでいっぱいになりそうな小さな居間。

上座にはどっしりと爺様が座ってる。

その横の席に葵の両親。真向かいに葵と並んで座った。

靴を脱いで畳に座るって総二郎の茶室以外に記憶がない。

「うまくいってる様だな」

満足そうな笑みを浮かべる爺様。

この人のよさそうな笑みに他人は騙される。

「随分な噂も広まってる様だし、葵さんを秘書にしたと聞いたぞ」

情報の出所は一之瀬に違いない。

俺の横でギクリと背を伸ばす様に葵に緊張が走ったのがわかる。

噂ってどこまでだ?

俺が押し倒したとか?押し倒されたとか?

爺様なら笑いと飛ばしそうだ。

「そろそろ婚約でも発表するか?」

そこに俺達の意思は関係ないと言う様な強引さを押しつけられてる様だ。

「今日はその話をするためにここに来た訳じゃないですよね」

葵が実家に帰ると知ったのは今朝。

俺の噂に、秘書にしたのもそのあとだ。

俺が一緒に行く気になったのも偶然。

「それは困ります」

爺様を見つめる葵の瞳はしっかりと拒否する強い光の意思をその中へ映し出す。

爺様を睨みつけるやつを初めてみた。

「ガハハハハハ、あきら振られているぞ」

時代劇のラストシーンで印籠見せながら響く高らかな笑いを彷彿させる。

やけに楽しそうだ。

そのくらいないと面白くないだろうとでも言いたげな表情の爺様。

今は俺も楽しんでる。

「勝手に、話を進めないでくださいよ」

爺様に反抗する態度を見せる俺も珍しい。

「今日の呼び出しのわけは?」

「実は・・・」

「ドタドタ」

突然玄関から乱暴に響く足音。

その足音に喋りかけた葵の父親の声が止まった。

「葵!葵!」

「葵、戻っているか!?」

いきなり開け放たれたふすま。

仁王立ちに叫んだ男が立つ。

「お兄ちゃん!」

テーブルにドンと両手をついて葵が驚きの声を上げる。

「長男が葵を連れ戻すと言いだしたもので・・・」

遠慮がちに早口で説明された。

「お兄さんいたのか?」

「うん」

兄から視線を移しながら葵がコクリと頷く。

「葵、こいつに騙されるな」

「どれだけ女を弄んできたか知っているか?」

今となれば顔を思い出すのにも苦労する女性もいたが、弄んだ記憶はない。

会ったこともない男に指を刺されてこいつ呼ばわりも初めてだ。

「こんな奴に大事な妹を任せられるか」

「あきらどうする?」

他人事みたいな爺様。

顔は楽しそうにほころんでいる。

「女性と付き合ったことはないとは言いませんが、弄んだつもりはありませんよ」

「それに今は誰とも付き合ってはいない」

信用できるかと疑いの表情は兄貴からピクリとも動かない。

「あのね、一緒に住んでるって言っても部屋は別だし、会社にも近いし不自由はしてないから」

「心配しないで、それに社長は信頼できるから」

葵が俺を擁護するとは思ってもいなかった。

女性に庇われるって言うのは俺としては心外だが、悪い気分じゃない。

「大体借金作ることになったのはお兄ちゃんとお父さんの所為だよね」

「そこからこんな突拍子もないことに巻きこまれたんだからッ」

地雷が爆発!

怒りが吹き出したとでも言う様な迫力のある声が響く。

「文句を言うな」

この捨て台詞で葵の前でふた回りほど小さくなった父親と兄。

つ・・・強いッ。

「俺も、無理強いするつもりはないし、すべては葵さんに任せます」

気を取りなおして落ち着いた冷静な声を響かせてそのまま二人で家を出る。

時折俺に見せる気の強さも葵流の優しさ。

そんな気がした。