下弦の月が浮かぶ夜39
*「今日の会議は11時から・・・」
柔かい声が耳元を通り過ぎる。
聞き慣れた声。
小さく漏れて聞こえた短い単語だけでも最近はこいつの声だとすぐわかる。
目の前で聞いてます?とでも言う様に眉をひそめた。
「ずいぶん慣れたみたいだな」
「ここでは興味本位でいろいろ聞かれなくて助かりました」
あのまま総務課にいたら殺されてたかもなんて物騒な言葉が飛びだした。
「そこまではないだろう」
手渡されて書類を受け取って一通り目を通す。
「社長は知らないんですよ」
「有望株の若手男性社員と食事に行ったと言うだけで次の日制服を隠されたりするんですから」
一瞬書類をめくる手が止まる。
「なぁ、それって自分のことか?」
わずかに嫌な気分が心に芽生える。
不愉快な感情。
「・・・ずいぶん前ですけど」
足ひっかけられて、お茶をこぼしそうになったり・・・。
相手先からの電話を取り次がなかったり・・・。
自分がもてると思ってる女性は質が悪いとぼやく。
聞く話は陰険だ。
「・・・でどうした?」
「やられたままにはしてませんでしたけど」
「あっ、取っ組み合いの喧嘩なんてしてませんからね」
「俺が聞きたいのはその男とどうなったかってことだ」
「どうもなってません」
え?あっ?の形で動いた唇が焦ったまま怒った声にかわる。
高校の時赤札を貼られた牧野はもっと陰湿ないじめだった。
学校全体でいじめられてた。
最初に倒すのはボス!
よくあの時点で司に宣戦布告が出来たものだ。
葵と同じ状況なら牧野も負けちゃいないだろう。
手も足も口も出しそうだ。
落ち着けるためか葵が大きく息を胸の奥に吸い込む。
そして真面目な顔を作った。
「社長と一緒にいたってことになったらそんなもんじゃ済まないでしょうから」
にっこりと余裕のほほ笑み。
それを崩したくなる。
「一緒に住んでるってばれたらどうなる?」
葵の表情から余裕がなくなって一瞬で頬が強張る。
「見合い相手だしな」
「見合いなんてしてないじゃないですか」
「爺さんからは婚約者として扱えって言われてるんだけど」
「今は上司と部下でしょう」
それ以外の関係はないとでもいう様にドンとデスクが葵の手のひらで音を立てる。
「オフィスラブって経験ないんだけどな、俺」
「私もないです!」
力の入った声で返された。
普段ならここで腰でも抱いて引き寄せる。
つーか、今までの相手なら自分から身体を俺に擦り寄せてくる。
葵相手じゃ無理な相談。
「試すか?」
「からかうなッ」
怒った顔のまま部屋を出ていかれた。
半分本気なんだけど、本気で口説いてはいない。
俺はどうしたいのだろう。
自分の心の中を見失いそうな感覚は初めてだ。
わりと・・・
葵の事が気にいってるみたいだ。
心の奥がつぶやいた。