下弦の月が浮かぶ夜42

*

食事に出たまま会社に戻ることが出来ずにいる。

強引なのは昔から変わらない。

俺としては珍しいマダムじゃない人種。

歳の差は一回りとはいかないまでも結構離れている。

「年の事は言わないでね」

なんてベッドの中で言われていた2年前。

あの時の俺は二十歳そこそこのガキだった。

スマートな恋愛がいいと満足していた。

今はなぜだかややこしい自分でも操縦できない様な感情の中でもがいている。

恋愛は単純だと思っていた頃が懐かしい。

・・・が、戻りたいとは思わない。

今の自分が抱いている想いがかけがえのないものに思えるから。

「香港ならあきら君に任せた方がいいって評判だからね」

「昔の彼だから頼んだ訳じゃないから安心して」

そこには押し付けじみたものは感じない。

昔の彼と言われるのも気が引くというものだ。

「ビルのオープンまで頼むはね」

「それに私香港ははじめただから心細いのよ」

細っそりとした指先はしなやかに動いてテーブルの上に置いていた俺の手のひらの上に合わせられた。

相変わらず美人だ。

男が何でも許しそうな雰囲気を持っている。

以前の俺ならすぐに「一緒に付き合いますよ」と、返事をしていたところだろう。

「部下と計画を立てて進めていきましょう」

「あきら君がやってくれるんじゃないの?」

「今は僕も昔ほど自由が効かないんで、しょうがないですよ。でも香港にはよく行きますから」

そのくらいの付き合いで勘弁してほしい。

気持ちを隠すながらも顔だけはほほ笑みを忘れない。

真面目に色気なしで彼女のオフィスで仕事の話をした。

今日に限って午後の予定がすべてキャンセルって冗談にしか思えなかった。

会社に帰り着いたのは午後7時過ぎ。

残っているのは一之瀬だけだった。

「彼女、今度香港に進出する気だ」

「赤西様はなかなかのビジネスをやられると評判ですものね」

「仕事を取ってきたからな。明日にでも部署にまわしておいてくれ」

「社長自ら営業してもらえるとわが社はもっと利益が上がりそうですね」

本気か、嫌みか分からない笑顔を一之瀬が作る。

「なあ、葵・・・東條はどうだった?」

「私に質問するのだったらどうだったじゃなくて、どうしたじゃないですか?」

「仕事もなかったので帰ってもらいました」

帰っているのは見ればわかる。

俺が聞きたいのは少しねじれたあいつの機嫌の事。

分かっているはずなのに素知らぬ顔が『ご自分でどうぞ』みたいに意地悪く表情を変える。

母親とたいして変わらない年齢の一之瀬には俺を子供扱いする癖がある。

俺のメルヘンチックな未だに少女の様な母親には持ちえない強さとやさしさがそこにある。

「一之瀬・・・」

「ご健闘を」

尻を叩かれる思いで本社ビルを後にした。

夜8時過ぎのマンション。

ここ数日は葵と一緒に帰宅していた。

あいつが先に帰っていればついている部屋の電気。

カギを開ければ自然と点灯する玄関の明かり。

その先のリビングは真っ暗のまま。

それは葵がと一緒に住むようになって初めての事。

それだけで胸に浮かぶ一抹の不安。

葵のいる生活にずいぶんと慣らされているみたいだ。

リビングに人影があるはずはなく暗闇に慣れた頃にわずかに浮かぶ家具の輪郭。

その中で「お帰りなさい」と明るい笑顔が見えたのは完全な幻覚。

ぶつくさ言いながらも俺の帰りを待っていてくれたんだと今さらながらに気がついた。

「どこに行っているんだ?」

ライトのスイッチを押してソファーに腰を下ろす。

「もう9時前だぞ。6時には会社を上がったんだろうがッ」

今の俺は珍しく不機嫌なまま独り言を呟いていた。

娘の帰りが遅いのを不機嫌に気にする親父みてぇ。

「社長には関係ないでしょう」

思春期の娘みたいに言い返されそうだと思えた。