涙まで抱きしめたい 9

*

「なんだ?」

「いえ、何でもありません」

俺に背中を向けた一之瀬の肩がわずかに震えてる。

なるべく葵のことを考えないようにと必要以上に書類の文字をにらんでサインをする。

いつもより一文一句が頭の中に映し出されてるはずなのに脳が理解しようとしない。

それでもサインする速度は加速している。

ウワノソラで仕事をしてる。

「今日の社長・・・背中に網目模様背負ってない?」

一之瀬以外俺に近づく気配なし。

珍しく一之瀬が俺にコーヒーを運んできた。

カップを俺の前に差し出して注がれる視線に気が付いて書類からゆるゆると顔をあげる。

にっこりとほほ笑むその顔は何か言いたげでムッとなる。

言いたいことあるなら言え!

笑ってる一之瀬の背中に無言で投げつける。

一之瀬が座り込んで「ククッ」と声を押し殺して震えた。

*

「やぁ」

見たくもない顔は機嫌よく笑顔を作る。

「別に用事もないのに来るな」

不機嫌を隠す遠慮もこいつには必要なしだ。

「さすが、あきらだよな」

「なんだ?」

感心しているそぶりで俺の感情に矢を放つような嫌味しか感じない。

「俺には無理だ。敵に塩を送るようなこと」

葵をお前の秘書にしたのは俺じゃないッ。

鼻で笑ってるよな翔平の態度。

「俺が喜んでお前に葵を近づけるわけないだろう」

お前の逆境を助ける様な余裕もない。

それにお前は別に困ってねぇだろう。

苦悩してるのは俺の方だ。

心の中にフツフツと泡が湧き上がってくるような不満。

「俺さ、敵意剥きだしで見つめられたの葵ちゃんが初めてなんだよな」

「ほら、みんな愛想よくするだろう」

デスクの上に身をのりだして翔平がぺらぺらと機嫌よくしゃべる。

それに反比例するように俺の口は重たくなる。

葵ちゃんなんて呼ぶなッ!

「あっ!葵ちゃんモテるな」

膝の上で握りしめて震えていた拳の動きがピタッと止まる。

「競争相手多い方が燃えるよな」

燃えなくていい!

モテるってそっちの方が気になる。

今の俺はきっと何でも翔平の条件を呑んでその話を聞き出すことに必死になりそうだ。

「お前のそんな必死な顔は初めて見た」

お前のそんなまじめに驚いた顔を見たのも久しぶりだ。

「翔平、お前本気で俺と葵を取り合うつもりじゃないよな?」

手を出すなの威圧を込める。

「今のところは」

ククッと翔平は喉を鳴らす。

「俺より、彼女ここの男性社員から食事誘われてたぞ」

「あれはいやそうな感じじゃなかったな」

わざと俺を煽るように翔平は大げさに言っていると思いたい。

だが、無理だ。

「誰だ」

冷静さを装いながらも嫉妬の感情は出口を求めて体中を駆け巡る。

「俺が知るかよ。男の名前なんていちいち覚えてない。女性社員なら別だけどね」

翔平の胸ぐらをつかもうと椅子から立ち上がろうとしたとき「時間です」の一之瀬の声。

宙を浮いた腕はそのままバンと音をたてってデスクに両手を叩きつけた。

「翔平、葵に手をだすな。これは忠告じゃなくて命令だ」

静かにこれ以上低くならない声は翔平の鼻先で響く。

「俺はまだ何もしてないぞ」

おどけるようなそぶりを見せる翔平を残して会社を後にした。

相手先との会合を終わらせて車の後部座席に体を預ける。

夕食を葵と共にとるのは遅い時間。

最近ほとんどこのパターン。

それでもいつも先に帰ってる葵が俺を「御帰りと」迎えてくれる。

本当にあいつは食事に俺の知らない男と言ってるのだろうか?

迷わずにポケットから取り出した携帯の短縮ボタンを押す。

いつもなら数回のコールで聞こえる葵の声。

今日はやけに遅い。

呼び出し音は留守番電話のアナウンスの声に切り替わる。

それでもあきらめきれずにもう一度携帯のボタンを押した。

「もしもし」

聞えてきた声は男の者。

思わず携帯の画面に表示された名前を確かめる。

葵の携帯に間違いなかった。

「・・・・・」

「すいません。今東条は携帯を置いたまま席を外してて、僕が代わりに出たんですけど」

この声には聞き覚えが合った。

香港で葵にちょっかい出してた里中ってやつだ。

こっちで葵に完璧に振られたはず。

まだあきらめてない?

「僕たち食事してるんですが、アジェンスって店にいますから。あっ帰ってきました」

携帯から聞こえてた声は小さくなる。

「ごめん、なかなか君の携帯が切れなくて」

里中から葵へと携帯が渡される数秒の間。

その数秒間で心音はドクンと波打つ。

「いい加減にしてよね!」

ため息交じりの不機嫌な声。

機嫌が悪いのは俺の方が上だ!

「なにがいい加減だ」

あいつには聞かせたことがないくらいの怒りが混じる声。

「あっ・・・」

戸惑いをにじませた葵の表情が目の前に浮かぶ。

「今携帯に出たの誰?」

気がついているのに葵の口からききたい事実。

嘘つかれたら相当落ち込む。

「先輩だけど・・・」

その言葉にホッとしてもムッとした気持ちは抑えようがなくなっている。

行くから待ってろ!の気持ちを押し付けるようにボタンを押して携帯を切った。

拍手コメント返礼

nonno様

司よりは冷静ですけどね(笑)

今いったら大変なことになるだろうし・・・

人騒動おこりますよね。

明日からの仕事にも影響がきっとある♪