ルサファ秘恋


第1章
このままもう死んでもいい。
ルサファは思いもよらぬユーリの取った行動に、戸惑いと、身体の中を電流が走るのにも似た感動を覚えていた。
ルサファの四肢や首にかけられ自由を奪っている皮ひもの感覚もルサファには快く感じられる。
「イシュタルよりの加護です、必ず戻ってきなさいルサファ」
ユーリの唇がルサファから離れ最初に発した言葉がルサファを現実に引き戻した。

ユーリのルサファを思う熱い想いがユーリの唇を介しルサファの唇に流れ込む。
ルサファの口の中には黒曜石の破片が含まれユーリのかすかな期待と、ルサファの命をつないでいた。
誰もいなくなった高台の処刑上には大の字に手足をのばされ、土壌に深く打ち付けられた木の杭に
革ひもで固定された身動きの取れないルサファを空から数羽のタカが優雅に円をかきながら、見下ろしている。
数日の炎天下の暑い日差しはルサファの体力を徐々に奪いとっている。
食べ物はおろか水さえも飲めぬ状態の口内にはほとんど唾液も残っていない。
ユーリが口移しで渡した黒曜石を転がすと少しずつ、かすかに唾液がしみだしルサファに希望をよみがえらせた。
ルサファは口の中の黒曜石の破片を右手近くに吐き飛ばすと、不自由な腕を必死で動かしなんとか手のひらに収める事が出来た。
これで皮ひもを切る事が出来る。
必死の思いの中でルサファの記憶はユーリと初めて対面した時期に引き戻されていた。

ミタンニとの戦いのため、マラティア遠征の先陣がカイル皇子に申し付けられた。
遠征出発前夜、カイル皇子の部隊長カッシュ、ミッタンナムワ、ルサファの三人は、夜の酒場に繰り出していた。
酒場は明日の出陣の前の決起揚々とした兵士であふれている。
戦いの前のいつもの光景であったが、ただ1つ違っていたのは、兵士の話題をカイル皇子の初めての側室が占めている事であった。
「今度の戦いはわが国の楽勝さ」
「なんせ、戦いの女神イシュタル様がついている」
兵士達は陽気に騒ぎユーリへの讃美を惜しまなかった。
「みんな楽天的だな、噂のイシュタル様に早く我々を紹介してもらいたいものだ」
ビールをのどに流しこみながらミッタンナムワが最初に言葉を発した。
「噂ではなかなか美しい姫君らしいな」
ルサファはあまり興味のないような面持ちでミッタンナムワにあいづちを返した。
「カイル殿下が初めて側室にしたお方だぜ」
「今までのお相手の姫君達を考えると楽しみではあるよな」
カッシュは思いっきりの好奇心を身体全身に現していた。
「俺が関心があるのは、噂どおりの御方かどうかだけだ」
ルサファはカッシュをおしとどめる様に口を開いた。
「ルサファお前はカイル殿下を信用してないのか」
カッシュは怒るような口調でルサファに詰め寄ったが眼は笑っていて、真面目腐ったルサファの物言いをからかってその反応を内心楽しんでいる。
「そんな事は言ってない、俺は自分の目で確かめたいだけだ。噂で惑わされるようなら部隊長は勤まらん」
「カイル殿下は聡明なお方だ、そんな心配は要らないだろう」
二人の間をミッタンナムワが割って入った。
テーブルの周囲を3人の笑い声が陽気に包んでいた。
翌日夜営を前にルサファ達はカイルの陣営に呼ばれた。
カイルを前に3人はうやうやしく頭を下げた。
一通りのあいさつをして頭をあげた3人の目の前にカイルの横にそっと付き添う少年がルサファーの目にとまった。
新しく召し抱えた小姓かと思った瞬間「この者がユーリだ、以後よろしく頼む」とカイルがその少年を
紹介した。
再度ユーリを見つめるルサファの目をユーリの黒い瞳がまっすぐに見つめ返していた。
物おじせず、ちょっと照れ笑いで挨拶するユーリの態度は3人の将校の好感の持てるものであった。
「どうぞ私に戦いの女神の祝福を」
ルサファはユーリの前にひざまずくと、ユーリのマントに軽くくちづけた。
この後、ユーリは噂以上の行動で三隊長達の信頼と忠誠を勝ち取っていった。
ユーリを慕うものは国中に広がっていったといっても過言ではないだろう。
イシュタルの噂はヒッタイトの中ではもう真実に変わっていた。


第2章
ミタンニとの戦い終了後ヒッタイトの国中が勝利に酔いしれていた。
その頃からカイルの宮にはザナンザ皇子を含めカッシュ、ミッタンナムワ、ルサファの三人の姿が、頻繁に見とめられるようになってきた。

元々カイルの宮の出入りは側近以外少なく、静かな雰囲気に包まれている。
カイルの警戒心が人の出入りを制限したこともあるが、三隊長を含めほとんどの用事は宮廷内で終わらせるのが通常であった。
ユーリの存在がカイルの宮の存在を変えていたのだ。
「ルサファ!」
ユーリがルサファの姿を見つけ足早に駆け寄ってきた。
中庭でミッタンナムワと剣の練習をしていたユーリは頬を赤く高潮させ息を弾ませた。
「ミッタンナムワ来てたのか」
「ああユーリ様の剣のお相手をしてたのさ、でも俺だけじゃないぜ」
そういうとミッタンナムワは後ろを剣のさやで示した。
ルサファの視線の先に窓辺に腰掛け手を軽く振るカッシュがいた。
三人は顔を見合わせ笑った。
「最近いつもだな」
「ああ、ここに来るのは楽しい、なんせ我イシュタル様に会えるからな」
だれかれとなくそんな言葉がもれた。
このころには三人にとってユーリの存在は特別となっていた。
カイルの側室としての敬意のほかにユーリには人をひきつけるなにかがあるのだ。
ユーリの無邪気さ、予測できない好奇心、行動力は皆の好意を引き寄せた。

「ユーリ様!また剣など・・・もうすぐ殿下が戻られます」
「早くお支度を!」
ハディ、リュイ、シャラの女官が足早に三隊長の目の前を通り過ぎた。
「じゃ~三隊長後でね」
ユーリは三姉妹に引きずられる様に奥の部屋に姿を消していった。
「いつもだな」
ルサファは笑いをこらえるとミッタンナムワとカッシュに目線を写した。
「またハディ達にお小言言われるぜ、あんた達が来るからユーリ様が側室らしくしてくれないって」
カッシュが肩をすぼめる様にため息混じりに言った。
「三姉妹もユーリ様を俺達に取られて、すねてるのさ」
「それでも俺達はユーリ様の声が聞きたいのさ。
なあ、ルサファ」
ミッタンナムワがルサファにあいずちを求めるようにウィンクする。
「そうだな」ルサファはやや顔を赤らめそう応えた。
ルサファはいつ頃からかユーリの姿を目で追う自分に気づいていた。
なぜユーリの行動がこんなに気になるのか自分でも解らず、ユーリを見ているだけで体の奥から沸き起こるあつい思いをカイルへの忠誠の表れと思いこまそうとしている自分がそこにいた。
「なに顔赤くしてんだ」カッシュがからかう様に、ルサファの脇腹を軽く殴りルサファを現実に引き戻す。
いつもこんな調子でカイルの宮は明るさに包まれていた。
ただ1つのことをのぞけば・・・
「最近ナキア皇妃の動きはどうなんだ」「カイル殿下が皇太子となられて黙ってるはずないんだがな」
「気が抜けないな」
「ナキア皇妃相手より戦争のほうが楽だぜ」
「すんなりとカイル殿下に王位を継いでもらいたいものだ」
三人の不安をよそにナキアの陰謀は水面下で着々とユーリ、カイルに忍び寄っていた

第三章

ルサファは馬を走らせた、手綱を操り砂埃を上げ馬を急がせた。
ナキアの策略によりザナンサ皇子は命を奪われそしてまた、アルヌワンダ皇帝の暗殺という暴挙に及んだ。
そしてその罪をユーリにきせ無実を証明できないまま、窮地に追い込まれたカイル達は、ナキアの手からユーりを逃すため、一先ず三姉妹の故郷アリンナにユーリを託した。
ルサファはカイルの命を受け、急使としてユーリの元へ馬を急がせた。
「ルサファ!カイル皇子はなんて言ってた!?、私はハットゥサに帰れる?」
ユーリはルサファが挨拶するまもなく興奮した口調で息をつくまもなく質問を浴びせた。
そのユーリのあまりの勢いにルサファは思わずしりもちをつく醜態をさらしてしまった。
まだ、無実の証明にはいたっておらず、今しばらくアリンナにとどまること継げるのと、ユーリの表情が同時にくもっていった。
この方のこの無邪気さが好きだ。
ユーリのあどけないほどの感情の表現にルサファは惹かれるもう1人の自分がいることを、さとらずに入られなかった、またその思いに戸惑う自分がそこたたずんでいた。
ユーリの思いはカイルにあることは十分に解っていた。
自分の思いがどうにもならないことも・・・
ユーリに思いを抱くことはカイルに対する反逆になることも、ルサファを苦しめ、そして恐れさせた。
だが、この思いを取り除くことが出来ないことも、紛れもない現実であっる。
自分は何も望んでいない、ただ思うだけなら自由だ。何度自分の心の中で繰り返した事か・・・
そう思うことで、ルサファはユーリへの思いを心の奥に永遠に閉じこめようとした。
この時ルサファの思いがナキアに操られることになるとは思いもよらないことであったろう

それからしばらく後皇帝暗殺の事件は、ウルスラが無実の罪をかぶり命を失うことでようやく決着を迎えたのだった。

第四章ユーリは日本に帰ることよりも、カイルのそばにいることを選んだ。
そして、カイルの側室としての日々が始まった。

ユーリがヒッタイトに残ったことは、ルサファにとっても喜ぶべき出来事であった。
もしユーリが日本に帰っていたら、それはそれでルサファにとって辛いことであったろう。
どちらがルサファを苦しめるのか、側室としてのユーリを見つめる日々と、ユーリと二度と会うことが出来ない日々と、どちらがルサファとって辛いのか、とりとめのない思いがルサファの心の中を駆け巡る。
見守ることのできる今を幸せと思える自分がそこにいる。
ユーリの声が聞けるだけで、そばにいることができるだけで、それでいいと思える自分がいた。

ヒッタイトに帰りカイル達を待ちうけていたものは、ナキアの命によるカイルの正室、側室候補の姫君達であった。
姫君達のユーリに対する嫌がらせは、ルサファにとっても我慢ならないものであった。
ユーリにひとかけらの好意も見せぬ集団の嫌がらせは日に日にエスカレートしていくようでルサファには我慢できなかった。
だが一介の将校にすぎぬ自分が後宮の出来事に介入することなど不可能であり、何の解決策も思いつかないまま、ただただカイルに陳情するしかなかった。
だが、ルサファの訴えにカイルは、ユーリを正室にと考えユーリ自身での解決を望んで、なんの行動も起こさず、歯がゆい思いのまま時は過ぎて行った。
そっして、ルサファがユーリの為にできることを模索する間、ナキアの陰謀は水面下で進められていた。

ナキアの操る黒い水はルサファのユーりに対する思いまでも操り、正室、側室候補の姫君暗殺の片棒を担がされ、姫君暗殺の罪をユーリにきせようとナキアは企んでいたのだ。
だが、事件はナキアの思うように進まず、ユーリの機転によりカイルへの思いを操られたセルト姫の仕業であることが判明した。
そして、ユーリを愛するルサファの心も利用され、ルサファはユーリを森の飼い葉小屋へと監禁。
ウルヒによりルサファの思いはユーリの知ることとなったのである。
操られたルサファにウルヒは望むことをすればいいと言い残し立ち去っていった。
だがルサファの思いは他のもの考えを遠く超える領域に達していた。
ルサファのユーリに対する思いはユーリに触れることも望めぬほど不可触女神となっていたのだ。
ルサファの望みはただユーリのそばにいることだけであった。
事件解決後、カイルの尽力もありルサファは弓兵隊長としての身分剥奪。
一兵士への降格処分ですんだ。
そして近衛長官に就任したユーリの副官としてカイルはルサファを任命した。
ルサファを信頼するカイルの粋な計らいに、どれほどの感謝の言葉を伝えたとしてもまだ足らないであろう と
ルサファの心は震えていた。

最終章

次にナキアが仕掛けたのは、ユーリから優秀な部下を奪うことであった。
その手始めがルサファであり、罠にはめられたルサファは元老院の決定により、炎夏の秤にかけられることとなった。
炎夏の秤執行場所の台地で、首と四肢を皮ひもで大地に縛り付けられたルサファにユーリは生きて帰るようにと、かすかな希望として黒曜石を口移しで渡してくれた。
その思いに報いることだけが今のルサファを奮いださせ、乾着きった口の中で下で黒曜石を転がした。
不思議なことに少しずつ口の中に唾液が広がり体の渇きにほんの少しの和らぎを持たせた。
必死の思いで吐き出した黒曜石は右手の届く位置にポトリと落ちた。

皮ひもを切るのに時間はかかったが、ルサファの命を奪うことは出来ず、体力を消耗はしたが無事ユーリのもとへ生還することができた。
きっといつかおれはあの方の為にこの命を捨てよう。
助かったこの身体をすべてユーリ様の為に捧げよう。
自分のすべてを捧げてユーリに仕えようとするルサファの誕生であった。